■月の客
「こんばんは」
乾の右手にある閉じたばかりの傘の先からは、途切れることなく雫が落ちていた。
茶色っぽいズボンの裾も、水を吸ってしまったらしく色が変わってしまっている。
「大変だったな」
仕方ない、という風に笑う乾に国光も苦笑を返す。
「見事に降られましたね」
開いた玄関からは、ざあざあと勢いのいい雨音が聞こえてくる。
二人で同時にため息をつき、そしてすぐに笑いあった。
今夜二人で眺めるはずだった中秋の名月は、厚い雲と激しい雨に完全に隠されてしまった。
本当なら月が良く見える客間で、乾と二人、雨粒が窓にぶつかる音を聞いていた。
月の客として招いた乾は、ズボンの裾が座布団を濡らすのを気にし、座りにくそうにしている。
部屋に上がる前に一度タオルで押さえたのだが、それだけで乾くような濡れ方ではなかったようだ。
「正座すると気持ちが悪いだろう? 気にせず足を崩せ」
「すみません。ではお言葉に甘えて」
くるくると裾を捲くると、乾はためらいがちに胡坐をかいた。
半端に覗く白い脛がなんとなく寒々しい。
とんだ月見の夜になったものだ。
「残念でしたね」
「そうだな」
静かな声ではあったが、乾の口調には今夜という日を惜しむ響きがある。
勿論それは自分も同じだ。
雨さえ降らなければ、今頃は乾と二人で特別な月を眺めていたはずだったのだから。
10日ほど前のことだったろうか。
良かったらと、知人からチケットを2枚譲られた。
見れば、青い紙に白抜きの文字で「雅楽演奏会」と書いてある。
日付は10月6日で、時刻は夜の7時から。
そして、開催される場所はある山の名前になっていた。
山といっても、山頂まではロープウェイで15分ほどで行けるはずだ。
国光は小学生のとき、遠足で行った覚えがある。
頂上には展望台と遊戯施設があり、行楽シーズンには結構人気のある場所だ。
毎年何かしらの月見のイベントがあるらしいが、今年は雅楽の演奏会なのだと知人は言う。
催し自体は無料なのだが、入場するには整理券がいる。
自分は用事が出来ていけなくなったのでと、その知人が譲ってくれたのだ。
チケットは2枚ある。
誰を誘おうかと考えたとき、真っ先に浮かんだのは乾の顔だった。
しかし、乾は雅楽になど興味はないかもしれない。
それに十五夜にあわせて作る和菓子だって、沢山あるだろう。
正直に断ってくれればまだいいが、立場上嫌とは言いにくい乾を、無理につきあわせてしまう可能性だってある。
他の人間を誘った方が良いと理性ではわかっているが、一度思い浮かべてしまったあの顔を、中々消すことが出来なかった。
散々迷った挙句に、とにかく言うだけ言ってみようと電話をかけると、乾はあっさりと誘いを受けてくれた。
能や狂言などの古典芸能に興味があり、雅楽も嫌いではないのだと言う。
月見の和菓子は朝のうちに作ってしまうので、夜には時間があるとも言ってくれた。
丁寧な礼を言う声を聴く限りは、どうも嘘ではない気がした。
そのときは安堵して電話を切り、あとは当日が来るのを楽しみに待っていたのだが。
まさか、今日と言う日がこんな土砂降りになるなんて、思ってもみなかった。
「雨だろうとは予想していましたが、ここまで凄いとは」
つぶやく乾に、国光も黙って頷いた。
既に昨日の時点で、明日は雨で中止になるかもしれないと覚悟はしていた。
今日は朝から土砂降りで、昼間のうちにイベントの中止が決まったようだ。
午後には乾に連絡を取り、それを伝えると、とりあえず予定していた時間に国光のところに一度顔を出すという。
断る理由もないので承諾したが、こんなひどい雨の中を歩かせてしまったのが、今となっては心苦しい。
中秋の名月のためのイベントなので、順延ではなく完全な中止なのは仕方ないことだ。
だが、またこんな機会が訪れる可能性を考えると、どうしても残念だと思ってしまう。
輝くような月の下で、乾と並んで雅な音を楽しむ時間を過ごすことなど、二度とないかもしれないのだ。
「空に文句を言っても仕様がないな。今回は運がなかったと諦めよう」
わざわざこんな台詞を言うのは、未練がある証拠だ。
我ながら諦めが悪いと苦笑が洩れた。
「ええ、そうですね。でも」
顔を上げると、乾は眼鏡を外して濡れたレンズを拭いているところだった。
眼鏡のない乾の顔を見るのは初めてだ。
「やっぱり残念だな。十五夜は子供の頃から特別な日のひとつだったんです。その夜を若先生と過ごせるのを、とても楽しみにしていたんですよ」
乾は手塚の視線に気が付いたのか、ふと照れたように目を細め、すぐに眼鏡をかけてしまった。
厚いレンズ越しでない瞳は、案外可愛い。
「今日のところは、これで我慢しましょう」
乾は崩していた足を元に戻し、きちんと座りなおした。
そして、傍らに置いていたビニール製の手提げ袋の中身を取り出した。
座卓の上に置いた小さな包みを、乾は手塚の前にそっと滑らせた。
どうやらこれも和菓子らしいが、いつもなら自分で包みを開くのに、今日に限ってどうしたのか。
だが、乾の目が開けろと言っているようなので、そのまま自分で結び目を解いた。
開いてみると、朱塗りの丸い箱が現れた。
そしてそれを包んでいたのは、小さめの風呂敷だった。
全体が紺色で、黄色い満月と白い兎、銀の薄が描かれている。
「先生はそういうのがお好きかなと思いまして。よかったらどうぞお使いください」
乾が言う先生とは母のことだ。
確かに母が見たら喜びそうだ。
「いいのか?」
「ええどうぞ」
「では、遠慮なく」
雨が当たってなければいいのですが、と乾は心配していたが、大切に持ってきたらしく、さわっても殆ど濡れていない。
丁寧に畳んでから、今度は箱の蓋を開けた。
丸い箱の真ん中には黄色くて真ん丸い万十が収められており、それを白い万十が5つ取り囲んでいる。赤い目と茶色い焼印の耳があるので、これは兎だろう。そして真ん中は月に見立ててあるのだ。
「ああ、これも母に見せてやりたいな。食べるのはそれからでもいいか?」
「勿論。ぜひそうしてください」
そろそろ母が茶を持って来る頃だろうから、ちょうどいい。
「これは君が作ったのか」
「ええ、そうですよ。この秋の新作です。おかげさまで、この天気にも関わらず、今日はよく出ました」
目の前で澄ましている男は、一体どんな顔をしてこれを作ったのだろうか。
大柄な乾が、ちんまりとかわいらしい兎のお菓子を拵えているところを想像すると、自然と笑いがこみ上げてくる。
「若先生、もしご迷惑でなかったら、また明日の夜お邪魔してもいいでしょうか」
「俺は構わないが、どうして?」
国光の問いかけに、乾はふわりと優しい笑顔を返す。
「月齢で言えば、明日が本当の満月です。お月見のやり直しをしませんか?」
「ああ、それはいいな。でも明日も雨だったらどうする」
「そのときは、若先生のお誕生会にしましょう」
「…どうして知っているんだ」
乾の言うとおりだった。
明日は国光の誕生日だが、乾にそれを教えた覚えはない。
国光が問いただしても、乾は情報源を明かすつもりはないようだ。
「さあ、どうしてでしょう?」
にやにやするばかりで答えを言わない乾を睨みつけいたが、そのうちどうでもよくなった。
この雨が止んでも止まなくても、明日が楽しみなことに変わりはない。
「小さな月ですけど、今夜はこれでお月見ということにしましょうか」
「ああ。これで十分だ」
白い万十を取り出し掌に乗せると、心なしか兎の目が笑っているように見えた。
2006.10.07
手塚、誕生日おめでとう!
といっても、この話の中では、まだ前日ですが。
月を見るための訪れた人を「月の客」というのだそうです。日本語って、なんて繊細で綺麗なんだろう。
本当は、二人の初デート(笑)の話を書くつもりだったのです。でも天気予報で、東京は雨になると知って、急遽予定を変えました。結果的にはそれでよかった気がします。勿論、この続きも書くつもりです。
乾の作ったお饅頭は日記の上に表示している写真がモデルです。あれ、美味しかったなあ。
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