■月の主
「こんばんは」
昨日と同じ言葉だが、今日の乾の手に傘はないし、勿論足元も濡れてはいない。

「今日は晴れたな」
「ええ。見事な月が出ています」
にっこりと笑う乾に、国光も思わず笑顔を返す。
「ああ、庭からよく見えた。今日はゆっくりしていってくれ」
「ありがとうございます」
頭を下げた乾から、少しだけ甘い匂いがした。

台風が過ぎた後のように、今日は朝からよく晴れていた。
激しい雨の名残で、庭には落ち葉が沢山落ちていたが、それを掃除するのも気持ちがよかった。
これなら、今夜はきっと綺麗な月が見えるだろうと思った。
夜になると、その期待を裏切らない眩いほどの月が昇った。

庭に回り、二人で夜空を仰いだ。
空気が澄んでいるのか、今日はいつもは見えない星までも見つけられる。
「本当によく晴れましたね」
「いい月だ。鏡みたいだ」
「本当ですね」
少し目を細めて月を見上げる横顔を、気づかれないように窺がった。
前髪が短いので、額の形のよさが際立っている。

特徴のありすぎる眼鏡のフレームや髪型にばかり目が行ってしまうが、乾はとても整った顔立ちをしている。
今思えば緊張していたのだろうと思うが、初めて逢った時の乾は、表情が読めず、神経質そうに見えた。
とても老舗の和菓子屋の後を継ぐような人間には見えず、少なからず戸惑いを覚えたものだ。
その予想は、嬉しい形で裏切られた。
乾の大きな手が作り出す菓子は、驚くほど繊細で美しい。
見た目だけでなく、味も飛び切り上等だ。

知り合ってまだ数ヶ月だが、乾には驚かされてばかりいる。
外見や口調だけでは、乾の内側はまるで読み取ることは出来ないのだ。
だから、惹かれる。
もっと、知りたい。
多分誰かに対して、そんな風に思ったのは、乾が初めてだ。

月に見とれている振りをして、しばらく乾の顔を見つめていたら、ふいに乾が振り返った。
「若先生、寒くはありませんか?」
「いや、平気だ」
「お着物だと、なんだか少し寒そうに見えますね」
「そうか?意外とそうでもないんだがな」
普段から着物で過ごすことが多いので、そうじゃない人にどう見えるかを、あまり考えたことがなかった。

「今日のお着物も、よくお似合いですね」
どう返事をしていいか迷っているうちに、乾はふと小さく笑い、ジャケットの胸ポケットから小さな箱を取り出し、国光の前に差し出した。
「これ、受け取っていただけますか」
「え?」
つい反射的に手が出てしまった。

「お誕生日おめでとうございます」
「俺に、か?」
「勿論」
乾はにっこりと笑っているが、少しだけ照れているようにも見えた。

「ありがとう。今、開けてもいいだろうか」
「ええ、どうぞ」
外で立ったまま贈り物を開くわけにも行かないので、乾を誘って客間に戻った。
庭に面した部屋なので、ここからも月が良く見える。

受け取ったばかりの箱を注意深く開けると、中から銀色の懐中時計が現れた。
やや小さめだが、銀色の蓋には綺麗な唐草模様が彫ってある。
蓋を開けると、文字盤には小窓があり、そこには丸い金色の月が覗いていた。
「和服を着る方なら、使っていただけるかと思いまして」
着物を着るときに腕時計をするのはあまり好きではなく、外してしまうことが多い。
乾の言うとおり、確かにこれなら、自然に持ち歩けるかもしれない。

「ムーンフェイズは私の趣味です。もし今夜も雨だったら、これでお月見しようかと思っていました」
「ああ、それでも良かったかもしれないな」
顔を上げると、くすりと笑う乾の目が合った。
掌にのせて裏に返すと、そこには国光の名前が刻まれていた。
きっと何日も前から用意してくれていたのだろう。
「ありがとう。大切にする」
軽く握ると、時計が時間を刻むリズムが伝わってくるようだ。

「それともうひとつ」
「ん?」
乾は今度は20センチ四方くらいの箱を座卓に置き、国光の見ている前で、自分で蓋を開けた。
「これは、ケーキ…か?」
箱の中身は、丸くてこんがりとした焼き色のついたお菓子。
どこか懐かしい甘い香りがする。

「惜しいけど、ハズレです。これは、カステラです」
「カステラ?カステラって、あの、底のほうがざらざらしていて、長崎土産にもらったりするカステラか?」
国光の言葉に、乾はくすくすと笑い出した。
「ええ、そのカステラです。これもちゃんと底にざらめが敷いてありますよ」
言われてみれば確かに、この香りはカステラだ。
だが、丸いカステラというのを見るのは初めてだ。

「本当はホールのケーキを焼きたかったんですけどね。ちょっと立場的にどうかと思いまして。かわりに丸いカステラを焼いてみたんですが、うまくいきました」
見た目は地味だけど、美味しいはず。
乾は得意げにそういって、また小さく笑っていた。

この男ときたら、どうしてこう見た目からは想像のつかないことをするのか。
昨日の兎といい、このまん丸のカステラといい、大の男にしてはやることが可愛すぎる。
多分、本人は自分の外見と行動のギャップには、全然気がついてないのだろう。
乾という人間を良く知るためには、どうも普通の付き合い方では駄目そうだ。
こちらも何か手を考えないと。
その方法を探すのは、とても楽しそうなことに思えた。

「母が昨日のお礼をしたいと言っている。良かったら、母の手料理を食べていってくれないか」
国光の申し出を、乾はにっこりと微笑んで受け入れた。
「ありがとうございます。では遠慮なくご馳走になります」
「では、このカステラは、そのときに切らせてもらうかな」
「ぜひそうしてください。なんなら蝋燭も立てますか?」
「いや、それは遠慮しておく」
ですよね、と乾は楽しそうに声を上げて笑い出した。

きっと、この丸いカステラの切り口は、今夜の月によく似た色をしているに違いない。
2006.10.08
「月の客」の続きです。今日はもう間に合わないかと思った。

「月の主」とは「月の客」を招く人のことだそうです。すごく手塚に似合ってますよね。
乾が手塚に贈る物の候補は二つあって、ぎりぎりまでどちらにするか悩みました。
月光だけで写真を撮る方の(有名だから、きっとご存知の方も多いでしょう)写真集と、ムーンフェイズの時計。どうしようか迷った末に、「ムーンフェイズの懐中時計ならぴったりかも!」と思いついて、それにしました。ネットで色々調べてたら、私が欲しくなったよ。

丸いカステラを作るってのは、早いうちから思いついてましたが、両方織り込めて嬉しい。
カステラ、食べたくなっちゃった。明日買ってこよう(笑)。