「なにかお手伝いすることは?」
乾にしては珍しい、どこか落ち着かない響きの声がした。
聞いたとたん、自然と口元が緩んでしまった。
その質問は、もう三度目だ──。
心の中でだけそう呟いて、手塚も三度目の答えを返す。
手にしていた菜ばしを置き、後ろを振り返って笑いかけた。
「大丈夫だ。もう終わる」
乾は、安心したようにも残念そうにも見える複雑な顔で、キッチンの入り口に突っ立っている。
気が利きすぎる男は、黙って待つより何かしたくてしょうがないのだろう。
ネクタイをしていないワイシャツの襟元を、所在無げに弄っていた。
「よし。出来たぞ」
湯気の立つ皿をふたつ持ち上げ、キッチンを出ようとすると、すかさず乾が手を伸ばしてきた。
「僕が運びます」
「ああ、ありがとう」
皿を運ぶだけなのに、乾は妙に嬉しそうだ。
よほど何かしたかったらしい。
「いい香りだ。すごく、おいしそうですね」
皿の上に目を落とした乾は、にっこりと微笑んだ。
「見た目だけじゃないといいんだがな」
「大丈夫。絶対おいしいですよ。僕が保障します」
乾は自信たっぷりに微笑み、ダイニングテーブルにそっと皿を置いた。
この位置でいいのかと目で問いかけてきたので、手塚も黙って頷いた。
残りの料理もテーブルに並べたところで、最後の仕上げだ。
「まずは乾杯だな。なにがいい?ワインとシャンパンと日本酒とビールがあるが」
最初から本人に選ばせるつもりで、乾が好きそうな銘柄を揃えておいた。
「とりあえずはビールですかねえ、やっぱり」
ビールを選んだのは、今夜はあくまでも、気楽にやりたいということなのだろう。
6月が始まったばかりだというのに、昼間は真夏のような暑さだった。
確かに今日ならビールが合いそうだ。
「じゃあビールで」
手塚がそう言うと、乾はにこにこと食器棚の前に歩いていき、ビールグラスを選び始めた。
勝手知ったる、というやつだ。
その間に冷蔵庫から出したビールをテーブルに運び、グラスを持って戻ってきた乾と、向かい合わせに席に着いた。
「誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
互いのグラスを合わせると、きん、と冴えた音がした。
ビールはちびちび飲むような酒ではない。
勢いをつけてグラスを傾ける。
ずっと火をつかっていたこともあり、きりっと冷えたビールは、たまらなく旨かった。
よくビールは喉で味わうと言うが、まさにそんな感じだった。
「グラスも冷やしておけばよかったな」
「いえいえ、十分です。家ではいつも缶から直接飲んでるくらいですから」
「あれはあれで旨い」
ほんとうに、と乾は笑う。
ビールで喉を潤したら、食事の開始だ。
「さっそくいただきます。本当においしそうだ」
「口に合うといいが」
並んだ皿に、手の込んだ料理はひとつもない。
メインは鶏のももをグリルで焼いたもの。
浅利の酒蒸しに、アスパラとベーコンのオムレツ。
それに豆腐とトマトのサラダ。
今は出していないが、炊き込みご飯と吸い物も用意してある。
「こんな料理で良かったろうか」
「すごいですよ。どれもすごく美味しそうです。誕生日に手料理でお祝いしてもらったのは、実家を出てからは初めてですよ。ありがとうございます」
乾は手塚に向かって頭を下げてから、にっこりと笑った。
真正面から言われて、なんだか照れくさくなってしまった。
「冷めないうちに食べてくれ」
はいと答える声は、本当に嬉しそうだった。
乾の誕生日を自分の手料理でもてなすのは、これが初めてだ。
それどころか、普段からあまり手料理を振舞うこと自体が少ない。
一人暮らしが長いからそこそこ料理はできるが、腕前は間違いなく乾の方が上だ。
なので、乾がこの部屋にいるときは、食事はほとんど乾の方が作ってくれる。
たまに手塚が自分で作ろうとしても、必ず乾がなにかしら手助けしてくれた。
そんな状態だから、誕生日に手料理を振舞うなんて考えたこともなかった。
本当は今年の誕生日も、どこかに食事に行こうと考えていた。
席を予約する必要があるから、あらかじめ乾の都合を確認したところ、やんわりと断られてしまったのだ。
仕事が大変なのかと思ったら、ちょっと違うと乾は笑った。
「もし我侭を言っていいなら、お願いしたいことがあって」
「なんだ?」
「先生の手料理が食べたいって言ったら、怒ります?」
「それはかまわないが、俺は簡単な料理しかできないけれどいいんだろうか」
「もちろんです。生活が不規則なもので、シンプルな家庭料理の方が嬉しいんですよ」
にっこりと澄ました顔で笑う男を、手塚はつい腕組をして見返してしまった。
まったく、口のうまいやつだ──。
しかし、実際のところは、まったくのお世辞というわけでもなさそうだ。
外食が続いたり食事が不規則なったりすると、家庭料理のありがたみがひしひしとわかるものだ。
乾の立場なら接待の席も多いだろうから、なおさらそう感じるのだろう。
「わかった。俺の料理でいいならご馳走させてくれ」
「ありがとうございます。楽しみにしてます」
そう答えては見たものの、自信はこれっぽっちも持てなかった。
2013.06.07