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■嘘吐き1

「ただいま」
残業を終えた乾がマンションのドアを開けたとき、丁度そろそろ夕食が出来上がるところだった。
「おかえり。いいタイミングだな」
「そうみたいだね」
いい匂いだと、乾は軽く笑ってから靴を脱いだ。

普段の食事は乾が作ることが多いが、それは決まっていることではなく、基本的には手が空いている方が作るようになった。
元々はアウトドア以外で料理を作ることは滅多に無かった手塚だが、料理好きの乾の影響で少しずつレパートリーを増やしつつあるところだ。

今夜の献立は白い御飯と味噌汁に、鰆の西京漬けに胡麻豆腐。
あとは冷蔵庫にあったものを適当に並べるだけという簡単なものだが、乾は矢鱈と嬉しそうだ。

「年々こういうメニューが好きになるよ。年のせいかな」
「俺は昔から好きだが?」
「手塚は…生まれる時代を少し間違えたかもね」
「どういう意味だ?」
「深い意味はありません」
乾はにっこりと笑い、それからふっと真面目な顔になりしばらく何も言わずに箸を動かしていた。

食事の後には二人でお茶かコーヒーを飲むのがいつもの習慣だ。
「今日は何を飲む?」
手塚が椅子から腰を浮かせながら問い掛けると、それを手で止めて乾の方が立ち上がった。
「俺が煎れる。コーヒーでいいかな?」
「ああ。じゃあ、頼む」
乾は愛用の薬缶を火にかけ、湯が沸くのを待っている。
だが、その顔はじっと何かを考えているようにも見えるのが少し気になった。

「はい、どうぞ」
煎れたてのコーヒーを手塚の前におき、乾もその向かいに座る。
「ありがとう」
手塚がそう言うと、乾は口先だけに笑いを浮かべて黙っていた。
それからゆっくりと息を吐くと、思い切ったように口を開いた。

「手塚に聞いて欲しいことがあるんだ」
「何だ?」
乾の声はいつもより低い。
 
「しばらくの間、一緒に暮らせなくなりそうだ」
「それは…どういうことだ?」
「仕事で、北海道に行くことになる」
「長い間か」
「最低でも一年。もしかするともっと長く」
乾は右手の白いカップを見つめて、また息を吐いた。

「あっちで新しいプロジェクトが動き出す。それに行くはずだった人間が、体調を崩して行けなくなった。替わりに俺に話が来た」
「そうか」
「俺以外に動ける奴はいないから、行くしかない」
選択肢はないんだと乾はぼそりと呟いた。

「手塚は大学があるし、ここから離れるわけには行かないだろう?」
「いつ行くんだ?」
「今月の中頃には」
「すぐだな」
「うん」
乾は伏せていた眼を手塚に向けた。
「せっかく一緒に居られるようになったのにね」
そう言いながら、乾は静かに笑っていた。
笑わなくてもいいときにでも、乾はそうやって笑う奴だった。
ずっと昔からそれは変わらない。

「手塚はどうする?家に戻る?」
「いや、俺はお前が許してくれるならここにいる」
「それは構わないよ。手塚がそれでいいなら」
「じゃあ、そうさせて貰う」

手塚にとって、自分の居るべき場所はここだ。
生まれ育った家も大切に思っていることに嘘は無いが、自分が居たいと思う場所はあそこではない。

「手塚が傍にいるのが当たり前になっていたから、一人になるのは辛いな」
乾は空になったカップを手の中で遊ばせていた。
「二度と会えないわけじゃない。北海道なんて、その気になればあっという間だ」
少なくとも長い間乾と離れいてた頃から比べれば、二人とも同じ国にいるだけはるかにましだ。

「うん。休みになれば帰ってくるつもりだ」
「俺も会いに行く」

だから、大丈夫だ。
そう言おうとしたら、乾が急にぱんと音を立てて顔の前で両手を合わせた。

「…ごめん。手塚。今の全部嘘」
「なに?」
「いや、だからさ、あの、今日は4月1日」
エイプリルフールだよ?と乾は申し訳なさそうに呟いた。

「あまり趣味のいい嘘じゃないな」
手塚が軽く睨むと、乾はぎゅっと得眼を閉じた。
「うん。俺もそう思う。ごめん。ホントにごめん」
乾は手を合わせたまま、必死に謝っている。
いつも平気で嘘をつく乾が、嘘をついてもいい日にそうしているのがおかしく見えた。

「わかった。もういい」
「手塚、怒ってる?」
乾は恐る恐るといった感じで顔を覗き込んでくる。
「いや、別に」
「本当に?本当に怒ってない?」
「しつこいな、お前。何度も言うと、かえって腹が立ってくるぞ」
「あああ、ごめん。もう言わない」
慌てて口を閉じる乾に苦笑しながら、手塚はカップに一口残っていた飲み忘れのコーヒーを飲み込んだ。
それはひどく苦い味がした。


ベッドに入って本を読んでいたら、濃紺のパジャマに着替えた乾が部屋に入ってきた。
最初から乾のために空けている場所に腰をかけて、乾は手塚の持っていた本を取り上げてパタンと閉じる。
そして、部屋の灯りを少し落とすと手塚のパジャマのボタンをひとつず外し始めた。
乾が三つ目のボタンに指をかけたとき、手塚がそれを自分の左手で遮った。
「嫌なの?」
「その前に聞きたいことがある」
「…何かな」
「お前、まだ嘘をついている」

ぴくりと乾の手が動いた。

「さっきの話は、本当のことなんだろう?」

乾は一度眼を見開いた後で、今度はゆっくりと眼を細めた。
そして、低く渇いた声で言った。

「どうしてわかった?」



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ごめんなさい。時間切れ。続きは明日にでも。