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■あめふりヒヤデス

とっくに梅雨入りしたはずなのに、ここのところ悪い冗談のような快晴日が続いていた。
雨がずっと続くよりは快適だが、全く降らないというのも困りものだ。
この分だと夏の盛りの頃には、水不足という事態になりそうだ。
そんな毎日だったので、雨具の心配をすることをつい忘れていた。
天気予報では降水確率は20パーセント程度だったので、それも当然かもしれない。

雨が降り出したことに気づいたのは、偶然だった。
エアコンが苦手な手塚は、自分ひとりのときは窓を開けて過ごすことが多い。
今日も、帰宅してからずっと窓を開いて風を通していた。
たとえ少々ぬるくても、天然の風の方が手塚には心地よい。
揺れる薄い生地のカーテンが、涼しげだった。

日が落ちる頃、風向きが少し変わったようだ。
突然に強い風が吹き込んで、カーテンが大きく舞い上がった。
少し閉めたほうが良さそうだ。
手塚が窓に近づくと、ガラスに水滴が付いていることに気が付いた。

雨か。
一度窓を開け、手を出して確かめる。
水滴がぽつんと、手のひらに落ちた。
乾は傘を持っているだろうか。
それが急に気になった。

少なくとも、家を出るときは持ってはいなかったはずだ。
念のために玄関に行き、傘立てを確認してみたが、やっぱり乾の傘はそこに置いたままだ。
傘がなくて大丈夫だろうかと考えたが、余計なお世話かとも思う。
職場に置き傘があるかもしれないし、例え持っていなくても子供じゃないのだから、途中でビニール傘を買うくらいことはするだろう。
頭ではそう思っても、何故だか落ち着かない。

手塚はもう一度窓を開け、雨脚を確かめた。
強い降りではないが、傘が無くてもすむほど弱くはない。
日没寸前の暗い空を、澱んだような雲が覆う。
雲の厚さ見た感じでは、すぐに止むような気配も無かった。

乾が会社を出た時間から計算すると、まだ電車に乗っている頃だ。
今から駅に向かえば、傘を届けてやれる。
だが、大の大人に、そこまでするのはおかしいだろうか。
駅の売店で傘だって買えるし、タクシーに乗ることもできるのだから。
でも、意外と乾は子供じみたところがあるから、もしかすると傘も差さずに走って帰ってくるかもしれない。
二三日前に、喉が痛いと言っていたのに、そんなことをしたら風邪を引いてしまいかねない。

どうしようか。
柄にも無く、こんなことを迷い続ける自分が、笑えてきた。
ぐずぐずと考えているくらいなら、行動した方が早い。
行き違いになったら、そのときだ。
雨降りの散歩を楽しんだと思えばいい。
手塚は自分の濃いグレイの傘と、乾のオリーブグリーンの傘を手に持ち、ドアを開けた。

外は少し蒸し暑かった。
何も羽織らずに着てよかったと思う。
腕に当たる細かい雨の雫が気持ちいい。
乾の傘を右手に、自分の傘は左手で差して駅に向かう間にも、雨は少しずつ強くなっているようだ。
この降りなら、傘がないと結構濡れていただろう。
判断を間違えたわけではないと、自分を満足させ、駅へと急いだ。

考えてみると、傘を持って誰かを迎えに行くなんて、生まれて初めてではないだろうか。
手塚にとっての初めての経験は、殆どが乾と関わっているような気がする。
ひとつひとつ心の中で数えているうちに、気恥ずかしくなってきた。
誰も見ているはずもないのに、頬が熱くなっているのが気になって仕方なかった。
急ぎ足で向かう先に、雨にぼやける駅が見えてきた。

混んだ駅の中でも、乾は直ぐに見つかった。
あれだけの長身なら、見逃す心配はいらないだろうと思っていたが、予想通りだった。
人並みから頭が飛び出しているだけでなく、特徴のありすぎるあの眼鏡。
お陰で、目の悪い手塚にも簡単に見つけられた。
乾の側から見ると、手塚も目立っているのかもしれない。
改札の手前でもう、存在に気がついたようだ。
一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに控えめな笑顔に変わった。

改札を抜けた乾のところにゆっくりと近づいていく。
乾も同じような歩調で、手塚に向かって歩いてきた。
「もしかして、雨が降ってるのかな」
「ああ。傘を持っていないんじゃないかと思って、迎えに来た」
「うん。持ってない。助かるよ」
ありがとうと、乾は微笑み、手塚が差し出したグリーンの傘を受け取った。
そして、人の波を避けるように、改札から少し離れたところに移動した。

「せっかくここまで来てくれたんだ。食事でもしていこうか?お礼に奢るよ」
「いや、夕食の下拵えをしてきたから」
「それを無駄にするのはもったいないな。じゃあ、コーヒー一杯だけならどう?」
乾は駅の構内にある、コーヒースタンドを指差した。
ガラス張りのウインドウには、よく見かけるロゴが描かれていた。

「そうだな。コーヒーくらいなら」
「よし、決まり。行こう」
軽い足取りで先を歩く乾の後を追う。
白いワイシャツを着た背中は広い。
見慣れた後姿のはずなのに、外で見ると不思議と新鮮に感じた。

店の中は、雨宿りをする客が多いのか、程々に混んでいた。
乾と並んで端の方の席に座り、淹れたてのコーヒーを味わった。
ウインドウと同じロゴの入った厚手のカップを手に持ち、乾はいかにも機嫌のいい笑顔を浮かべていた。
「何を笑っているんだ?」
「迎えに来てくれたのが嬉しいんだ」
手塚が尋ねると、乾は少し声を落とした。
多分、人に聞かれないようにしているのだろう。

「俺はずっと鍵っ子だったから、誰かに迎えに来てもらったって経験が殆どないんだ」
そう言って乾はふっと楽しげに目を細めた。
「まさか、この年になってから誰かに、傘を持ってきてもらえるとは思わなかったなあ」
そうか、と思う。
手塚は誰かを迎えにいくのが初めてで、乾は逆に誰かに迎えに来てもらえるのが初めての経験だったのだ。
ただ、傘を届けたというだけのことだが、案外これは貴重な体験だったのかもしれない。
いつもなら、さほど旨いと思わないコーヒーが、やけに美味しく感じられた。

「ここを出たら、雨が上がっていたりして」
乾はカップを手の中で遊ばせながら、くすりと笑う。
「ありえるな」
「もしくは、どしゃ降りになっているかも」
「そのときは、お前に責任をとってもらう」
「え?どうやって取ればいいんだ?」
自分で考えろと言ったら、乾はしばらく首を捻っていた。
考えているのはフリだけで、目は笑ったままだった。


駅の外に出ると、雨はまだ降っていた。
雨の勢いは、強くも弱くもないし、すぐに晴れる気配もない。
現実なんて、こんなものだろう。
乾も同じことを考えたらしく、「ま、こんなもんでしょ」と、ニヤニヤしながら傘を開いた。

並んで傘を差して歩いているうちに、雨は少しずつ弱くなっていった。
「雨が上がった後は、星が綺麗に見えるんだよな」
独り言のように、乾は呟いて、曽良を見上げていた。

確かに、ビルの向こうの空は、厚かった雲が少しだけ薄くなっている。
この分だと、家に着いた頃には雨は止んでいるのかもしれない。
もしそうなったら、あの雲の切れ間から、ぼんやりと霞む星団が見えないか探してみようと思う。



2007.07.07
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タイトルはUAの「あめふりヒヤデス」から頂きました。
ヒヤデスは星団の名前。最初にこのタイトルを見たとき「ヒヤデス」ってなに?「冷やです」ってこと?なんてことを考えてました。調べたら、全然違った。はずかすぃ。

いい年した男が、傘を持ってお迎えって怖いよ。僕達、HOMOですって言ってるようなもんじゃないか?
いや、言ってくれても全然構わないんですが。