ラベンダーの罠

4月も半ばを過ぎ、随分と日差しが強くなってきた。
遮る物がないテニスコートは、よく晴れた日なら、早朝でも結構暑い。
今日も真っ青な空が広がる晴天だったので、朝練のうちに汗をかいた。
あとひと月もしたら、朝っぱらから汗だくになるだろう。

遮る物がないといえば、この屋上もそうだ。
フェンスにもたれかかる背中は、太陽の陽を浴びて、ぽかぽかと暖かい。
真っ黒な学生服を着ているから、尚更だ。
昼食を済ませ腹の中も落ち着いて、気分がいい。
思い切り、あくびの一つもしたいところだが、すぐ傍にいる部長に気を使い、それを堪えた。

昼休みだろうと、手塚は自分が青学テニス部の長であり生徒会長でもあることを忘れない。
少しは気を抜けと言っても、首を縦には振らないだろう。
呆れるほどの生真面目さは、乾にはむしろ好ましい。
自分にはないものを持っている人間に惹かれる性質であることは、ずっと前から自覚している。

年度が変わったばかりのこの時期、とにかく手塚は忙しい。
特に生徒会の方に時間を取られることが多く、部活も遅れたり休んだりしている。
だから、こうやって昼休みも無駄にすることができないのだ。
少しでも手塚が部活に来る時間を増やしてやれるのならと、乾も出来る限りの協力をしていた。

乾が作った資料に目を通す顔は、真剣そのものだ。
だが、やや伏せた睫の長さや、白い頬の滑らかさは、鬼部長というイメージとは程遠い。
そのギャップもまた手塚の魅力だと思っている。
乾がこっそり目を細めてそれを眺めていることなど、当の本人は気づいてない。

「いい資料だな。これは、もらってもいいのか?」
手塚は顔を上げ、一人分くらいの隙間を空けて座る乾を見た。
「役に立ちそうなら」
「もちろんだ。有効に使わせてもらう」
乾が自分のパソコンで作った資料を、手塚は丁寧に折りたたむ。
細い指先が、律儀に紙の角を揃えているのが、微笑ましかった。

「それから、新しい練習メニューも考えてみた。まだ基本部分のみだけど、確認してもらっていいか」
「ありがとう。いつも悪いな」
手塚は、乾に向かって手を差し出した。
きっと、さっきのように紙を渡されると思ったのだろう。

「あ、ごめん。これ、なぐり書きだから、多分本人じゃないと判読できないと思う。今、読み上げるから確認してくれるか」
「そうか。わかった」
手塚は伸ばした手を引っ込め、立てた膝の上に乗せた。
綺麗に切りそろえられた爪が光っている。

二人の間には、乾の持ち物が置いてあった。
ノートや筆記用具に、空になった弁当箱。
乾は、それらを逆側に置くと、開いた場所を詰めて座りなおした。
これで、肩が触れるくらい近づいたことになる。

パラパラとレポート用紙をめくっていると、手塚がふと何かに気づいたような表情で、乾の方を向いた。
「何だ?」
乾が手を止めると、手塚には珍しく、少し慌てた感じで首を横に動した。
「いや。なんでもない」
「そうか。じゃあ、読むよ」
ん、と手塚が頷くのを確認して、乾は来週から始める予定の、新たな練習メニューを声に出して読み始めた。

屋上だから、風は、ほどほどに吹いている。
だが、春先の冷たさはもうなく、今はただ暖かい。
すぐ隣にいる人間にさえ聞こえればいいので、大きな声は必要ない。
乾は、ゆっくりと、一音一音を丁寧に読むことだけ気をつけていた。

三分の一ほど呼んだところで、自分の手の甲を見つめていた手塚が、顔を上げた。
「乾」
「ん?問題があったかな。どこだ」
「そうじゃないんだが」
「じゃあ、何?」
手塚は眉を寄せ、軽く唇を噛んでいる。
怒っているのではなく、おそらくは困っているのだろう。

「いや、いい。続けてくれ」
「うん」
一度大きく息を吐いて、手塚はまた前を向いた。
少し俯いたせいで、白い項が見える。
乾は声を出さずに笑い、また、自分の書いた文章を読み始めた。

手塚に変化が訪れるまで、それほど時間がかからなかった。
まず、かくんと手塚の身体が揺れた。
何度か、それを堪える気配した。
だが、あえて乾は何も言わなかった。

そのうち、ぐらりと手塚が傾いたので、少し肩を下げて、受け止めた。
心地良い重みが、そこにかかる。
なるべく動かないようにして、手塚を支えた。
そのまま数十秒。

どうやら、作戦は成功だ。
手塚は、乾の肩で静かな寝息を立てていた。

生徒会長とテニス部の部長を兼任していれば、忙しいのは当たり前だ。
生徒会役員も、テニス部員もそれをわかっている。
困ったことに、手塚本人は、自分が無理をしていることに気がついてない。
しかも、負けず嫌いで頭が固いから、心配の仕方を間違えると、逆効果になってしまう。

ほんの少しでいいから、肩の力を抜いて、休んで欲しい。
手塚を知る者は、皆そう考える。
手助けだって惜しまないし、出来ることなら、休んでくれと言ってやりたい。
でも、実際にそれを出来る人間は、とても少ない。
だから、その数少ない特権を持つ乾は、行動に移してみたのだ。

ポケットの中には、ラベンダーオイルを染みこませたハンカチをこっそりしまい込んである。
香りがとんでしまわないよう、スプレーしたのは、ここに来る直前。
ラベンダーには、眠りを誘う効果がある。
乾が隣に座りなおしたときに、ふと手塚が顔を上げたのは、きっとこの香りに気づいたからだ。
確認してもらう文章を、ゆっくりと抑揚のない声で読み上げたのも、眠気を誘うための作戦だった。
中学生にしては落ち着きがあり過ぎるといわれる声質なのも、今回は有利に働くだろうと踏んだ。

暖かい日差しに、ラベンダー。
面白くもない朗読。
手塚はまんまと、罠に嵌まった。
長い時間、休ませてやることは無理だけど、眠りの質さえよければそれなりの効果はある。
僅かでも、手塚が疲れをとれるなら、決して無駄ではないと思いたい。

耳元で続く寝息は、乱れることがなく、とても心地良さそうだ。
今日の天気なら、日射病になることはないが、紫外線は気にかかる。
今度同じ作戦を決行するときは、日傘を持ってこようか。
それとも、二度と同じ手には引っかかってくれないだろうか。
この肩の寝心地が気に入ってくれたら、罠に嵌るふりくらいは、してくれるかもしれない。

手塚がずり落ちてしまわないように、身体を支えた瞬間、ラベンダーの香りがふわりと漂った。

2008.04.18

中学生乾塚。
ラベンダーに、そこまでの即効性があるとは思えない。きっと、それだけ疲れていたってことで。