Silky
キーボードを叩く、カタカタという乾いた音が、放課後の生徒会室の中に響いていた。狭いとは言え、自分を含めてたった二人しかいない部屋は、がらんとしている。
軽やかなキータッチから生まれる音は、リズミカルで気持ちがいい。
手塚は書類を読むのをやめて顔を上げ、向かいに座る乾を見た。
――俺では、とてもじゃないが、ああはいかない。
手塚は時々手を止めて、ノートパソコンのキーボード上を走る、乾の滑らかな指の動きに見とれていた。
青学テニス部は、週に二度ほど部活のない日がある。
その日は、自主練習をしたり、中学生らしく勉強に当てたりと、部員によって時間のすごし方は色々だ。
中には、ゆっくりと休養をとる者もいるだろう。
だが、生徒会長を兼任している手塚は、そうはいかない。
忙しくて、ついつ後回しにしていた雑用を片付けるための貴重な時間となっていた。
今日は暇そうにしていた乾を捕まえ、手塚が苦手な仕事を押し付けることに成功した。
ワープロソフトで書類を作るのは、乾に任せれば手塚よりも3倍くらいは早そうだ。
お陰で、順調に雑務が片付いていく。
他に誰もいないのも、手塚には好都合だった。
他の役員達には申し訳ないが、乾は手塚の呼吸を読むのがとても上手いので、他の誰よりも効率よく仕事が出来るのだ。
「もうすぐ打ち終わるけど、まだ何かある?」
乾はパソコンの画面から目を離さずに、話しかけてきた。
完璧なブラインドタッチが出来る乾は、殆ど手元を見ることがない。
「じゃあ、こっちも頼む。今日はこれで終わりにしよう」」
「了解」
手塚が渡した原稿を受け取って、乾は軽く微笑んだ。
すぐにまたキーボードを叩く軽快な音が流れ出す。
その音を聞いていると、退屈な事務処理もなんとなく楽しくなってくるから、不思議だ。
つきあわせた礼に、帰りに何か奢ってやってろうかという気持ちになった。
「ところでさ」
乾は、ふと思い出したというような口調で話しかけてきた。
「手塚、シャンプー変えたのか?」
「は?」
顔を上げると、乾と目が合った。
「多分、十日くらい前からだと思うんだが、違うか?」
「どうして?」
「どうしてって言われても」
乾は、くすっと小さく笑ってから、キーボードの上に置いていた右手を顎に当てる。
「で、実際はどうなのかな。当たってる?」
「当たりだ。お前の言う通り、十日くらい前から違うシャンプーに変わったようだ」
「ようだってのは、何?」
多分、そう聞かれるだろうと予想していた。
「俺は気づかなかったんだ」
「へ?どういう意味」
「母に、新しいシャンプーの使い心地を聞かれるまで、変わっていたことに気づかなかった」
変えて三日目くらいに、母に言われて、初めて違うシャンプーだったことを知ったのだ。
「いや、だって、ボトルだって違うだろう?」
「母はいつも、使いやすいボトルに詰め替えてくれるんだ。だから見た目じゃわからない」
「ああ、なるほどね」
手塚だって、ボトル自体が変わっていたら、気づいていたはずだ。
いくらなんでもそこまでは鈍くない、と思いたい。
「でも、それこそ使い心地とか、仕上がり具合とか、多少は違うだろう?」
「あまり気にしたことがなかった」
乾は、長い腕を組んで、考え込んでいるようなポーズで下を向く。
両肩が揺れているのは、笑い出したいのを堪えているからだろう。
「お前はどうしてわかったんだ。実際に使ったわけでもないのに」
「ん?俺?」
顔を上げた乾は、案の定、笑っていた。
でも、その顔に浮かんでいるのは、とても楽しそうな笑顔で、手塚をからかう時の表情ではなかった。
「なんとなくね。朝練のとき、いつもと違う気がしたんだよな」
「十日前に?」
「うん、まあね。だけど、確信を持ったのは、この間、手塚がうちに来たときだな」
確かに数日前、学校の帰りに乾の家に寄ったことがあった。
多分、そのときのことを言っているのだろう。
「確かめてみたら、髪の香りも手触りも、全然違っていたからね。間違いないと思ったよ」
「待て、乾」
「なに」
「確かめたというのは何だ?」
自分には、そんなことをされた記憶はない。
「手塚、あの日、俺の部屋でうたた寝しただろう?そのときに、ちょっとね」
油断もすきもあったもんじゃないが、それを今になって言ったところでしょうがない。
悪気はなかったのだと笑う乾は、悪気の塊みたいな奴なのだ。
思い切り睨んだところで、何の効き目もないことはわかっている。
「すごく、さらさらしてたな」
手塚は返事をしなかった。
何を言い出すか、想像がついたからだ。
「今、髪に触ってもいい?」
思った通りのことを、乾は口にした。
「駄目だと言っても、どうせ触るんだろう?」
「よくご存知で」
ゆっくりと立ち上がった乾は、机に手を突いて、上半身だけを軽く前に倒した。
顎を上げると、まともに視線がぶつかって、なんとなく目を逸らした。
乾の手が伸びてくるのを、視界の端で捉える。
長い指がゆっくりと手塚の髪に触れた。
「やっぱり、すごくさらさらしている。気持ちがいいな」
「そう、か」
目を合わせないようにして、手塚は答えた。
「香りもいいね。前のは、メントール系だったけど、今のはハーブっぽい感じがする」
「ああ、確かに母がそんなことを言っていた。ラベンダー…だったかな」
「へえ。言われてみたら、そんな香りだ。ラベンダーなら、髪を洗ったあとは、よく眠れそうだな」
「どうしてだ?」
乾の指を意識していることを悟られないように答えるのは、難しい。
「ラベンダーには、安眠効果があるんだよ」
「気に入ったのなら、銘柄を確かめてくるぞ」
「いや、俺はいい」
くすりと笑う声が、耳元で聞こえた。
「自分で使うより、いい匂いの手塚を抱く方がいい」
気障だとか、鬱陶しいから止めろとか、言うこともできたはずだった。
だけど、回された両腕が心地よくて、手塚は大人しく身体を預けてしまった。
面倒な仕事を引き受けたお礼なのだと、自分に言い聞かせれば、それほど恥ずかしくはない。
そういえば、母に新しいシャンプーの使い心地を聞かれたとき、気に入らないのなら前のに戻すとも言っていた。
今日、家についたら、このままでいいと、忘れずに母に伝えておかなくては。
2008.02.21
乾は匂いフェチ。犬属性だから。