■未来の破片(カケラ)
ドアを開けたら、見覚えのない靴があった。
きちんと揃えられた濃い茶色の革靴は、それが誰の持ち物かを雄弁に物語っている。
また、予告なしか。
乾は小さく笑うと廊下を抜けリビングへと続くドアを開く。
「手塚、来てたんだ」
灯りのついているリビングから、返事は返ってこない。
ネクタイを緩めながら、スイッチの入っていないテレビの前に歩いていく。
そこには手塚が来ると必ず座る、彼のお気に入りのローソファがある。
思ったとおり、手塚はそこに長い足を伸ばし気持ちよさそうに眠っていた。
低いテーブルの上にはちゃんと眼鏡が折りたたまれて置かれているし、読みかけらしい栞が挟まれた本もすぐ傍にある。
どうやら本を読んでるうちに眠くなってしまったのだろう。
すぐ目の前に屈みこんでも、手塚が目を覚ます気配はない。
薄手のシャツに包まれた胸は規則正しく上下し、白い頬にそっと触れても微動だにしない。
手塚は完璧に熟睡していた。
「どうして、電話の一本くらい寄越さないのかな」
子供のように無防備に寝息を立てる手塚を見て、乾は笑いながら一人つぶやいた。
好きなときに来ていいからと、乾の住むマンションの合鍵を渡した。
その言葉通り、手塚は時間ができると好き勝手にこの部屋を訪れるようになった。
大抵、何の前触れもなく好きなときにふらりとやってくる。
それ自体は一向にかまわないが、一言事前に来ることを言ってくれればそれなりに準備も出来るのに、と思う。
食事だって、手塚が来ることがわかって入ればちゃんと用意したのだが。
だが、相手が手塚ならこういう不意打ちは悪くない。
仕事を追えて疲れて帰ってきたところに、いかにも気持ちよさげに眠る優雅で綺麗なイキモノ。
気の向いたときにだけ餌をねだりに来る野良猫みたいだ、と乾は思う。
だが、野良猫はこんなに毛並みが良くはない。
乾はすべりのいい髪に指を通して、微笑んだ。
しかし、こんなところで寝ていては風邪を引きかねない。
起こそうか、と思ったがそれは躊躇われた。
抱いてベッドまで運んでもいいが、途中で目を覚ましたら何かと煩いし、ここは何かかけてやればいいかと考える。
ベッドルームから毛布を一枚持ってきて、起こさないよう注意深くかけてやる。
だが、目を覚ます気配はまったくない。
よっぽど深く眠っているようだ。
手塚を置いて乾は着替えを始めた。
手塚に合鍵を渡して、3ヶ月が経った。
現役最後の試合を優勝で飾って、手塚の選手生活は幕を閉じた。
だが、それですぐ何もかもから開放されたわけではない。
整理しなければならない事務的なことや、今後に関わることで手塚はしばらくの間は身動きがとれなかった。
思った通り、手塚には様々なところから声がかかった。テニスクラブのコーチ、高校や大学の指導者、果ては容貌を見込まれてかスポーツニュースのキャスターやらタレントにならないかとの誘いまであったらしい。
だが、そのどれも手塚はきっぱりと断わった。
手塚が選んだ道は、おそらく誰もが驚くものだった。
もう一度大学に通う。
それが手塚の望んだ新しい「道」だ。
手塚は過去に一度、日本の大学に現役で合格している。しかし、プロのテニスプレーヤーを続けながら大学に通うことは物理的に不可能だった。
中途半端を嫌う手塚が大学を辞めたのは、納得のいく選択だったと思う。
それでも手塚がそれをずっと残念に思っていたことを、乾は知っていた。
だから、手塚の口から「大学を受けなおす」と聞かされたときは心から頷いた。
「俺もそれがいいと思う」
そう答えたときの手塚の安心したような顔を、今でもはっきりと覚えている。
着替えを済ませてリビングに戻っても、手塚はまだ熟睡していた。
少し前に誕生日を迎えたばかりの27歳。
だが、こうして眠る顔は自分が良く知っていた頃と殆ど変わらない。
可愛い、と本人に向かって言えば本気で嫌な顔をするだろう。
大学を受けるといっても、実際に受験するのは来年になる。
年が明ければ本格的に準備を始めるだろうが、今はまだそれほど時間に追われているわけではない。
要するに手塚は今やっと、十数年ぶりに「自由な時間」を手に入れることができたのだ。
その貴重な時間を自分と一緒に過ごすことを選んでくれたことが、素直に嬉しい。
何の約束も必要とせずに、この部屋を自分の居場所と思ってくれる。
それは乾にとっては何よりも幸せなことだ。
手塚が居心地良く過ごせるようになら、なんでもしてやりたい。
「夕食はどうするかな…」
眠り続ける手塚の顔から目を離し、時間を確かめる。
8時30分を少々回ったところだ。
この時間なら手塚が目を覚ましてから外へ食事に出ても構わないだろう。
それが面倒なら、ケータリングが何かを頼んでもいい。
コーヒーでも飲みながら、手塚が目を覚ますのを待っていよう。
そう決めて、乾はキッチンへと向かう。
愛用のケトルでお湯を沸かし、コーヒーを入れる準備を始めたとき後ろから声がした。
「…帰ってたのか」
振り返ると、ソファの上で手塚が半身を起こしていた。
「あ、悪い。起こしちゃったか?」
いかにも目を覚ましきっていない、ぼうっとした手塚の表情に頬が緩む。
「…帰ってきたなら、起こせ」
「気持ちよさそうだったから、起こすのかわいそうで」
焦点の定まってない目と、いつもよりスローな口調の手塚が微笑ましく感じる。
乾は、左手で前髪をかきあげる仕草のまま息を吐く手塚の隣に膝をついた。
「ただいま」
「ん」
どうやら、まだ頭が回っていないらしい。短すぎる返事に笑いながら、かけていた毛布を畳んでやる。
「何時に来てたんだ?」
「6時…くらいだ」
「そうか。もっと早く帰ってくれば良かったな」
「いや、別に…いいんだ。俺が勝手に来たんだから」
眠そうなまま眼鏡を探すそぶりの手塚に、乾が手渡してやる。
「腹、減ってるだろ。外に何か食べにいくか?」
「冷蔵庫」
「ん?」
「適当に買ってきた。暖めればすぐ食べられる」
説明不足の台詞だが、言おうとしていることはわかる。
乾は立ち上がって、冷蔵庫の中を確かめてみた。
そこには確かにこの部屋を出るときにはなかったものが収められていた。
透明な容器に入ったサラダやパスタらしきパックがいくつか。
少し深めのパックはビーフシチューかなにかに見える。
「ああ、これだけあれば十分だな。ありがとう。すぐ暖めるよ」
手塚のほうを振り返ると、ようやく目が覚めた顔をしていた。
「食器、適当に出すぞ」
「うん。頼む」
いつもよりは遅い動きで、手塚が食器棚を物色し始めた。
こんな些細なことで、実感する。
手塚はもう「訪問者」ではないのだ。
確かに時間が来たら、手塚は自分の家に帰っていくだろう。
だが、間違いなく手塚はここを「自分の居場所の一部」だと思ってくれてる。
だから怖くない。
朝が来て手塚がドアを開けて出て行っても、会いたくなればいつでも来てくれる。
それが信じられるから。
鍋に開けたシチューがくつくつと音を立てる。
手塚の出してくれた白い器にそれを注ぐ。
「いただきます」を言える相手が手塚であること。
それに感謝しながら、乾は銀のスプーンを手に取った。
back | next | archive top || index