■迅速果断
10月も半ばになると、日が沈むのが随分と早くなったような気がする。
マンションの8階にある乾の部屋からは、青から茜色へと微妙なグラデーションを描く空がよく見えた。
一軒家に住む手塚の家では、こんな遠くまで見渡せる夕焼け空を眺めることはできない。

部活を引退してから、放課後を乾と過ごすことが多くなった。
覚悟はしていたものの、急に空いてしまった時間は、予想以上に長い。
持ち上がりとはいえ、一応受験生という立場では、退屈している場合ではないことは、わかっている。
だが、毎日のように図書室で一緒に勉強したり、今日のように乾の家に寄らせてもらったりしたおかげで、その時間をもてあまさずにすんだ。

退屈しのぎというだけでなく、乾と勉強するのは、それ自体がとても楽しい経験だった。
乾は基本的に人に物を教えるのが上手な上に、驚くほど博識だった。
受験に直接関係のないことにまで話が及び、気がつくと手を止めたまま、乾の話すことに夢中になって聞きいってることが、よくあった。

今日も、勉強するつもりで乾の家に寄ったはずなのだが、試験にでることはないであろう話ばかり聞かされていた。
物に溢れかえった部屋の真ん中に、無理やり折りたたみのテーブルを置いて向かい合ったのは、何のためなのか。
そんな疑問が頭をよぎらないわけではないが、話し上手な乾に引き込まれて、そのうち忘れてしまうのがいつものパターンだった。
さすがの乾の話しつかれたのか、キリのいいところで、ふうっと息を吐いた。

「喉が渇いたな」
小一時間も一人で話し続けていれば、喉くらい渇くだろう。
「何か飲もうか。熱いのと冷たいのどっちがいい?」
「熱いコーヒーを頼んでいいか」
お安い御用、と立ち上がった乾が動きを止めた。

「あ、れ」
「どうした?」
反射的に顔を上げると、乾は右の目をぎゅっと瞑っている。
「目にゴミが入ったかな。ちょっと、痛い」
どうやら右の目に、何か異物が入ったようで、乾は少し眉を寄せてパチパチと瞬きを始めた。
大丈夫かと声をかけようとしたとたん、乾が急に目を押さえた。
「いてててて」
「瞬きしたせいで、変なところに入ったんじゃないのか?」
「わかんないけど、痛い」
「あ、馬鹿。目をこするな」
止めるのが一瞬遅かった。
既に乾は右目を人差し指の内側で、ごしごしと擦ってしまっていた。

「あいたたたた」
「だから言ったのに。ほら、見せてみろ」
慌てて立ち上がり、顔を覗き込むと、乾の右目は赤く充血し、表面には透明な膜が出来ている。
そして、乾がゆっくりと瞬きする度に、大粒の涙がこぼれ、濃い色の睫を濡らしていた。

ほんの一瞬、息を止めた。
乾の睫毛はこんなに長かっただろうか。
瞳の色も、目じりの形も、記憶とは微妙に違う気がした。

「…何か、入ってる?」
窺うような声に、引き戻された。
「ああ。これは、睫毛だな。抜けた睫毛が入ったんだ」
「取れそうかな」
「もうちょっと近くに来てくれ」
手塚がそう言うと、乾は自分で眼鏡を外し、更に顔を近づけた。
なぜだか、ほんの少し後ろめたい。

頬に手をかけ、指先にだけ力を入れ、下の瞼を引っ張ってみる。
その間にも、新しい涙が溢れ出す。
それが上手く睫毛を押し出し、瞼のふちに引っかかった。
「動くなよ」
乾にそう言い付けておいて、注意深く小指の先で睫毛を掬った。

「よし。取れたぞ」
「あ、ありがとう」
乾は手の甲で涙を拭うと、何度か瞬きを繰り返した。
違和感がないのを確かめたのか、それからにっこりと手塚に笑いかけた。
「うん。もう痛くない。さんきゅ」
睫毛の先は、まだ濡れた色をしていた。

勝手に手が動き出し、乾の胸倉を掴む。
乾の顔が呆気に取られたような表情になったが、手は止まらない。
そのまま、乾をすぐ脇にあるベッドの上に押し倒した。
乾が何か言おうとしているのがわかったが、その前に手塚の唇が言葉を封じる。
目を開いたままの乾の肩を押させえつけ、無理やり唇を重ねた。

なぜ、そんなことをしたのか、自分でもわからない。
だけどどうしても、そうせずにはいられない。
息継ぎもろくにしないで、貪る様にキスを繰り返した。

お互い息が続かなくなったのか、ほぼ同時に唇を離した。
肩膝をついて、身体を起こすと、自分を見上げる乾と目が合った。
荒い呼吸をしながらしばらく見詰め合っていたが、不意に乾が笑い出した。
「殴られるのかと、思った」
「…俺は理由なく人を殴ったりしない」
「だからさ。何か気に障ったのかと焦ったよ」
ベッドに仰向けになったままで、乾は笑い続けている。

「こういうことがしたいんなら、最初からそう言ってくれないか」
「したいと思ったわけじゃない。勝手に身体が動いてたんだ」
言ってから、しまったと思ったがもう遅い。

「勝手に、ねえ」
にやりと唇の端を上げるのは、何かを含んでいることを、わざと匂わせるためだ。
「それって、俺に欲情したってこと?」
「うるさい」
「都合が悪いと、いつもそれだ」
くすくすと笑う顔は、眼鏡がない分だけ、いつもより意地悪く見える。

「何が手塚をそんな気分にさせたのかな」
長い腕がすうっと伸びて、手塚の腰を抱きかかえようとする。
すぐに気がついて、身体を起こそうとしたが、逃げるのが間に合わなかった。
乾の両腕に抱きとめられて、今度は手塚の方が動けなくなる。

「教えてくれる?」
「知るか」
「冷たいこと言わないで」
冷たいも暖かいもない。
自分でもよくわからないことを、どうやったら人に伝えられるというのか。
わかっているのは、自分の中にもそんな衝動があるのだという事実だけ。
力を抜いて、乾の胸に身体を預けると、大きな掌が背中を撫でた。

「手塚。黙ってないで、そろそろ白状したら?」
「あんまりしつこいと殴るぞ」
「理由なく殴ったりしないんじゃなかったのか」

――本当は俺以上に俺のことをわかっているくせに。
無理やり言わせようとする、意地の悪い行動は立派な理由になるだろう。
今はまだ動けないけれど、あとでこの腕の中から抜け出したら、思い知らせてやる。

これはあくまで乾を油断させるためなのだ。
そう自分に言い訳して、もう一度乾にキスをした。
2006.10.17
先日アップした「強引なキス」の絵を描いてる最中に思いついたネタ。全然誕生日とは関係ないのです。すんません。

泣き顔というか、涙にぐらっときちゃった手塚って、かわいいんじゃないか?と思ったのですわ。見たことがない表情にドキドキするのはお互い様ですよね、きっと。
手塚だって男の子なんだから、ムラムラしたらうっかり押し倒すくらいのことはするでしょう。でも、その後、大人しく(?)抱っこされるところが受けの受けたる所以だな。

タイトルは、「恋する四字熟語」の中から頂きました。四字熟語は楽しいな。お題代わりにしたら、毎日何か書けそうな気がするよ。