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■働く男
師走が特別に忙しい月だと実感したのは、乾と暮らすようになってからだ。
テニスのことしか考えていなかった日々のツケは、今頃になって、こんな形で回ってくる。
「ただいま。結構冷え込んできたな」
外の寒さを一緒に連れ帰ってきたのか、ドアは既に閉まっているのに、乾の方からひんやりとした空気が流れてきた。
おかえりと声をかけると、乾は首に巻いたモスグリーンのマフラーを外しながら、にこりと笑う。
普段なら人より白い乾の頬が、少し赤くなっていた。
日が落ちてから、一段と寒さが増してきたようだ。
去年の今頃は連日深夜まで残業していたが、今年の乾は比較的早い時間に帰ってくる。
仕事が減ったわけではなく、単に乾の所属する部署の人員が増えたために、負担が軽くなったのだという。
今夜の帰宅は8時半。
一年前と比べると、奇跡的な時間だった。
既に夕食の下ごしらえは済んでいる。
乾がすぐに食べたいと言うなら、15分もあれば用意できる。
その前にコーヒーでも飲んで、少し寛ぐのもいいいかもしれない。
時間に余裕があると、気持ちにもゆとりが出来るのがいい。
器用に片手でコートのボタンを外しながらリビングを横切る乾に、手塚は軽い気持ちで声をかけた。
「手が空いたらで構わないんだが、俺のパソコンを見てもらっていいだろうか」
「何?調子が悪いのか?」
ぴたりと足を止め、乾が振り返る。
「ああ、どうも変なんだ」
「どう変なんだ?今、立ち上がってる?」
乾はせっかくボタンを外したコートも脱がず、まっすぐに手塚の部屋に向かって大股で歩いていく。
そんなつもりではなかった手塚は、慌てて広い背中を追いかけた。
「乾、今じゃなくていいんだ。夕食が済んでからにしてくれ」
「いいよ。調子の悪いパソコンがあるのに食事なんかしていられない」
冗談なのか本気なのか、判別が付かないのだが、顔を見ると楽しそうなので、半々なのかもしれない。
乾は、手塚愛用の机に向かうと、すぐにノートパソコンの電源を入れた。
よほど不調が気になるらしく、立ち上がるのを待つのでさえ、もどかしそうだ。
うっかりしていた。
話を切り出すタイミングを、もっと考えるべきだった。
乾にとって、トラブル対処は趣味みたいなものだ。
パソコンに限らず電化製品の故障や不調を直すのが、面白くて仕方ないらしい。
着替えもせずにパソコンの液晶を見つめる姿に苦笑が漏れた。
「コートくらい脱いだらどうだ」
「ん?ああ、うん」
既に乾の興味はパソコンに集中していた。
画面を凝視したまま、とりあえずコートを脱ぎ、それを椅子の背にかけようとしている。
その前に手塚が受け取ると、今度はスーツの上だけを脱いで、顔も向けずに渡してよこす。
細いストライプのワイシャツとネクタイはそのままだ。
「で?どこがどうおかしいんだ」
上手く説明する自信がないので、手塚は乾の左側にまわり、使われていないマウスを握ってインターネットブラウザを立ち上げた。
「ほら。文字の表示がおかしいだろう?それだけじゃなくて、フォントも変更できなくなっているし、辞書登録も上手くいかない」
「ああ、なるほどね。わかったわかった」
原因はすぐに予想がついたらしい。
乾は視線を画面に固定したままで素早くキーを叩き、殆どマウスを握ることはない。
目の前で次々とウィンドウが切り替わり、何をしているのかと聞く暇すらない。
手塚は半ば呆気に取られながら、乾の鮮やかな手つきを斜め後ろから眺めていた。
「乾」
「ん?」
キーボードを叩く乾の指は止まらない。
「お前、少し痩せたか?」
「特に変わらないと思うけど」
「そうか。気のせいかな」
振り向かずに答える乾の背中を見て、手塚は口を閉じた。
なんとなく、いつもより顎のあたりや手首が細くなったように見えたのだが。
だが、本当に体重が落ちたのなら、毎日風呂上りに見る半裸で気がつきそうなものだ。
それに直接、乾の体の重みを感じる機会だって、少なくない。
どうして痩せたなんて思ってしまったのかと、心の中で自問した。
ああ、そうか。
きっと、乾の服装のせいだ。
痩せたように感じたのは、ワイシャツとネクタイのせいで、引き締まって見えたからだ。
しかもシャツはごく細いストライプ柄。
それで、尚更着痩せして見えたのかもしれない。
手塚はようやく納得がいって、乾に見えない位置で、こっそりと頷いた。
乾がパソコンを使っているところは、中学のときから嫌というほど見てきた。
スーツ姿だって、月曜から金曜まで毎日見ている。
だが、その二つが揃っただけで、なぜか目の前の乾が新鮮に見えてしかたない。
考えてみれば、乾がこんな服装でコンピューターを使っているところを見るのは、初めてではないだろうか。
家にいるときの乾は、夏ならTシャツ、寒い季節ならトレーナーやセーターのように、大抵シンプルでラフな服装をしている。
ラフといっても、いつも自分に良く似合ったセンスのいいものを着ているので、決してだらしなく見えたりするようなことはない。
それでもやはり普段着は普段着だ。
仕事のための服装とは根本的に違う。
二人で外に食事に出かけるときのスーツ姿とも、やはり同じではないのだ。
高速でキーを叩いていた手が、ぴたっと止まった。
「はい。これで完了。あとは、再起動すれば元通りだ」
「ああ、ありがとう。手間をかけたな」
「よくあるトラブルだから、今後のために対処法を教えておこうか?」
顔を上げた乾と、久しぶりに目が合った。
「そうだな。そうしてもらえるか」
「じゃあ、最初からいくよ」
乾はまた手塚には不可能なスピードでウィンドウを切り替え、元の画面に戻ると順を追って説明を始めた。
昔からコンピューターには頗る強い乾のことだ。
きっと何度もこんな経験をしているのだろう。
トラブルの原因を簡潔に説明し、その対処法に関しては、具体的な方法をわかりやすく教えてくれる。
ずっと以前、パソコンメーカーのサポートセンターに電話したことがあるが、乾の言葉の方が遥かに無駄がなく明快だ。
そういえば、乾は人に何かを教えるのも、とても上手かったことを思い出した。
パソコンにあまり詳しくない手塚を気遣ってのことだと思うが、説明する口調は丁寧で柔らかい。
だが、液晶画面を見る目は、真剣だ。
一度も乾が仕事をしているところを見たことがないが、もしかすると、こんな感じなのだろうか。
だとしたら、働く乾は中々かっこいいじゃないか。
長い指で画面を指差す乾を見ているうちに、自然と笑みがこぼれた。
「どうした?」
声は出さなかったはずなのだが、笑ったのが雰囲気でわかったのが、乾は怪訝そうな顔で手塚を見上げた。
「いや、別になんでもない。ただ、仕事中のお前はこんな感じなのかと思ってな」
「まあ、そう遠くはないかな。で、それがどうかした?」
「普段のお前より、少しは恰好が良く見える」
「少し、なんですか?」
「まあな」
乾がくすっと笑ったところで再起動を知らせる音が鳴った。
モニターにはOSのロゴが映し出されている。
乾はすぐに視線をそちらに向け、再度ブラウザを立ち上げた。
そして、素早く表示を確認すると、手塚の方を振り返った。
「はい。完了」
「ありがとう。助かった」
「どういたしまして」
さっきまでは顔だけを手塚に向けていた乾は、今度は身体ごとぐるりと回転させた。
そして、両腕を手塚の腰に回して、ぐいっと自分の方に引き寄せる。
どうやら膝の上に座れと言いたいらしい。
普段なら絶対そんなことをする気はないが、パソコンを直してもらった礼のつもりで応じてやった。
背中を向け遠慮なく体重を掛けると、乾は小さな声で笑い、身体が膝から滑り落ちないように支えてくれた。
乾は手塚の耳に唇が触れるくらい顔を近づけた。
息があたって、少しくすぐったい。
「手塚が試合をしているとき、すごくかっこよかったよ」
「いきなり、なんだ」
「だって、手塚はプロだったんだから、あれが働く男の姿だったわけでしょう」
「一応そうなるな」
両腕に力を入れなおし、手塚の肩に顔を埋めた。
「真剣勝負をしている手塚は、本当にかっこよかった。思い出すと、ぞくぞくするくらいだ」
「今の俺はかっこ悪いのか?」
「今もかっこいいよ。でもね、テニスをしているときの手塚は、特別だから」
乾の囁くような低い声が、首筋から身体全体に、じわりと広がっていく。
言うまでもなく、プロのテニスプレイヤーであった年月は、自分にとっても特別な日々だった。
そこから遠く離れた今でも、その過ぎた時間を『特別』だと言ってくれる存在がいる。
それが嬉しかった。
「きっと会社でのお前も、そうなんだろうな」
「そう、って?」
「普段より恰好が良いってことだ」
「さあ、どうだろうな」
乾は顎を手塚の肩に乗せ、ふっと軽く息を吐いた。
顔は見えないが、きっと笑っているんだろう。
「俺が仕事をしているところ、見たい?」
「ああ」
「なんなら、会社見学に来るか?」
「いや、遠慮しておく」
確かに、乾が働く姿を見たい気持ちはある。
乾には見られたことがあるのに、自分は知らないと言うのも悔しいとも思う。
だけど、一緒に暮らすようになって、それまで見たことのなかった乾を沢山目にしてきた。
それは驚きの連続で、とても楽しい経験だった。
この先も、乾との時間はずっと続いていくはずだ。
それならば、まだまだ自分の知らない部分も、これからの楽しみとして残しておきたい。
「いいのかい。会社での俺は、惚れなおすほどかっこいいかもしれないよ?」
「それは、ない」
「あ…そうですか」
乾は、がくっと力を落とすふりをしたが、すぐに自分からくすくすと笑い出した。
「そろそろ夕食の支度をする。お前もさっさと、着替えて手伝え」
乾の膝から降りて振り向くと、乾はネクタイに手をかけ楽しそうに微笑んでいた。
「じゃ、そうさせていただきますか」
そして、ネクタイを緩める手を止めて、にやりと唇を斜めにした。
「それとも手塚が脱がせてくれる?」
「ネクタイくらいなら外してやる」
片手で乾の顎を持ち上げ、もう片方の手でネクタイの結び目に指をかけ、そっと緩めていく。
切れ長の目が、ゆっくりと細くなる。
キスを催促しているのは、すぐにわかった。
軽く唇を重ねると、乾の両腕が簡単に手塚を掴まえてしまう。
キスひとつで手塚の自由を奪ってしまえる男を、何をどうしたって、これ以上好きになりようがない。
2006.12.16
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十日くらいかけて、ちまちまと打っておりました。あまりにコマ切れで打つと、何を書きたかったのか忘れてしまいますね。てへへ。
真剣に働く男はかっこいい。ネクタイとワイシャツはサラリーマンの戦闘服ですよ。
きっと乾もかっこいいはず。そう思いながら、キーボードを叩いてました。
タイトルはユニコーンの名曲から。
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