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■マグカップ

コーヒーというものを旨いと思ったのは、頻繁に乾の家に行くようになってからだと思う。
手塚にとって、コーヒーはあまり馴染みのある飲み物ではなかった。
家族の影響もあって、実家では緑茶か紅茶を飲むことが多く、店で飲む場合もコーヒー以外を頼むことが殆どだった。

だが、乾は違う。
初めて乾の家を訪れたのは、まだ中学の頃だったが、そのときはもう既に自分専用のコーヒーミルを持っているような奴だった。
当然、コーヒーメーカーなどは使わず、挽きたての豆をドリップする手つきは、その外見と相まって、とても中学生には見えなかった。
驚いた分を差っぴいても、そのコーヒーはとても旨かった。
多分そのときから、手塚もコーヒーが好きになったのだと思う。

乾と遠く離れていた時期、なんとか自分で旨いコーヒーを淹れたくて、電気式のコーヒーメーカーを買ったことがあった。
どんなものを選んだらいいのかわからずに、店員に勧められたものを、そのまま買ったような記憶がある。
説明書どおりに入れたコーヒーは、乾が自分のために用意してくれたものとは、程遠い味だった。
結局、そのコーヒーメーカーを使う事は、自然となくなってしまった。

乾と一緒に暮らすようになって、また毎日旨いコーヒーが飲めるようになった。
ますます、乾はコーヒーを淹れるのが上手くなって、今ではもう外で飲む気すら起きない。
腕だけでなく、器具も豆も全部にこだわり、手間も金も惜しまないから、当然といえば当然だ。
もし乾が、いつか脱サラして、コーヒーの専門店を開きたいと言い出しても、手塚は反対はしないだろう。

冬になると、ますます乾の淹れた熱いコーヒーが欲しくなる。
今夜のように冷え込んだときは尚更だ。
今日は土曜日。
夕食は早めに済ませ、それぞれが好きなようにゆっくりと時間を過ごしていた。

手塚は読んでいた文庫本に栞を挟み、ソファの背にもたれかかった。
隣でテレビを見ていた乾は、首を捻って手塚の方を向いた。
「どうした?眠くなったか」
「いや。ちょっと肩が凝った」
「根を詰めすぎじゃないか。コーヒー淹れるから、少し休めば?」
「ちょうど欲しいと思っていたところだ」
ソファの背に首を預けたまま笑うと、乾も、にこりと小さく微笑み返す。

「じゃ、ちょっと待っててくれ」
立ち上がった乾は、軽く伸びをすると、キッチンへと歩いて行く。
それを見送った後で、手塚も本を置いて、食器棚に向かった。
片方がキッチンに立っているときは、もう片方が食器を用意するのは、いつのまにか身についた癖だ。

食器棚の中には、沢山のマグカップが並んでいる。
乾はこれでコーヒーを飲むのが好きなのだ。
ちゃんとソーサー付の、そう安物ではないコーヒーカップだって揃っている。
だが、それはあまり使われる事はなく、いつも好んで使うのは、乾の手に合った大きいマグカップばかり。
そのうち、なんとなくマグカップがコレクションのようになってしまい、今ではかなりの数のカップがぎっしりと詰め込まれていた。

乾本人が自分で使うために買ったもの。
手塚が好きそうだからだと選んできたもの。
誰かから貰ったものも、いくつかある。
色もデザインも、恐らく値段も、様々で、統一性は殆どない。
だが、マグカップ独特の温かみのある形は共通だ。
どれもこれも愛着があり、なくなっていい物はひとつもない。

コーヒーそのものと、淹れる器具には贅沢をするくせに、味わうための器は気取らないものでいい。
それはとても乾らしい。

手塚は一通りカップを眺めてから、少し厚めのどっしりとしたものを二つ選んだ。
同じロゴが入った色違いで、ひとつは白、もうひとつは藍色をしていた。
どちらがどれを使うかは決まってはいない。
いつもそのときの気分で選んでいるが、多分今夜の乾は青い方を選ぶ気した。
手塚はお湯を入れたカップをテーブルの上に並べ、乾が来るのを待った。

「お待たせ」
暖めたマグカップにたっぷりと注がれたコーヒーは、深くて柔らかい香りを立てていた。
「いい匂いだ」
椅子に座った手塚が香りを楽しんでいる間に、乾は立ったままで藍色のカップに手を伸ばした。
やっぱりと思ったが、何も言わない。

「うん。旨い。初めて買った豆だけど、当たりみたいだ」
「座って飲め。落ち着かない」
「あ、ごめん。俺はあっちで飲むよ」
乾はソファを指差し、カップを持ち手ではなく上から包み込むようにして持ち上げ、歩いて行った。
手塚も自分のカップを手にして乾の隣に行き、湯気の立つコーヒーを一口含んだ。
火傷するくらい熱くコーヒーは、とても美味しい。

世の中に、コーヒー自慢の名店は数え切れないくらいあるだろう。
だが、どこに行っても、乾が淹れたコーヒーには及ばないはずだ。
なぜなら、このコーヒーが美味しいのは、「誰か」のために淹れた物ではなく、手塚のために淹れてくれた物だから。
手塚の好む濃さや温度を知り尽くした乾が、手塚のためだけに心を込めて淹れたものが、負けるわけなどない。

「旨いな」
両手で包み込んだマグカップから、暖かさが伝わってくる。
そして乾と触れ合っている肩のあたりが、ほんのりと暖かい。
いつもこんな風に、乾は外からも内からも手塚を暖めてくれる。
「この豆、気に入った?」
「ああ」
「じゃあ、また買ってくる」
「頼む」

こうやって、乾はひとつずつ手塚の好むものを憶えて来た。
データを集める癖は、今でも変わっていないということか。
乾以外には渡せない情報の積み重ねは、こんな形で手塚の元に帰ってくる。

まだ熱いコーヒーを、もう一度口を付ける。
特別であり、当たり前の味は、他の何かには変えられない。
それを味わうのには、やっぱり大きくてしっかりしたマグカップが一番似合っている。
乾の長い指が持つ藍色のカップと、自分の手の中に収まった白いカップを、手塚は何度も見比べていた。


2007.01.20
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私もマグカップ好きです。20個くらい持ってます。100均で買ったものから、某ブランドのものまでさまざま。文中に出てくる色違いのカップは実際に持っているものがモデルです。
モノ・コムサで買った福助のマグカップ。かわいいよー。

うちで飲むときは大抵マグカップ。これって普通ですよね…?実は紅茶もウーロン茶もマグで飲みます。わざわざティーカップを使うの、面倒なんだもん。

いつもはコーヒーメーカーを使ってコーヒーを淹れいてるんですが、今日、久しぶりにインスタントコーヒーを飲んだら、すんごく胃がもたれたんです。不思議とインスタントだけ、もたれるんですよねー。
で、乾の部屋にはインスタントコーヒーはないんだろうなと思って浮かんだのがこれでした。

でも、カップラーメンは食べるんだよ、きっと(笑)。そんな乾が好きなんだ。