二日目の無精ひげ
「おはよう」ベッドルームから出てきた男の顔は、意外なくらいすっきりとしていた。
きっと、ものすごく寝ぼけた顔で起きてくるだろうと予想していた手塚は、顔には出さずに驚いた。
ここのところ、乾はとてつもなく忙しい日々を送っていた。
残業続きで相当疲れがたまっているところに、駄目押しのように職場に泊り込み。
ひげさえ剃る暇もなかった乾は、やっと仕事を片付けたその足で、手塚のところにやってきた。
一目で疲れきっているのがわかる顔で、それでも笑ってみせる馬鹿な男は、夕べはベッドに入ったとたん意識を失くすように寝入ってしまった。
ただ眠るだけなら、わざわざ人の家になど寄らなくてもいいだろうに。
手塚の顔が見たかっただの、触れたかったのだと甘えたことを言っていた。
どこまで本気なのか、判断しにくい男だが、夕べに限れば九割くらいは本音だったろうと思う。
見慣れない無精ひげと、少し見ないうちに尖ってしまったあごを撫でても、目を覚まさないほど、乾は深く眠っていた。
まともな睡眠は、久しぶりだろうから、好きなだけ寝かせておくつもりだった。
だが、予想に反して、乾は手塚が起きた一時間後には、ベッドから抜け出してきた。
「なんだ。思ったよりも早く起きたんだな」
「うん。おかげ様ですっきり目が覚めたよ」
乾は日の当たるリビングで、長い両腕を思い切りよく伸ばす。
陽光が眩しいのか、それとも少しは眠いのか、わずかに目を細めた。
「眠りの質が良かったんだろうな。手塚効果は、すごいよ」
なにがどうすごいのか、よくわからないが、本人が満足しているようなので、それでいい。
こんなに早く起きてくるとは思わなかったので、朝食の準備をしていないことの方が気になった。
「朝食、パンとコーヒーとサラダと目玉焼きくらいしかできないが、それでいいか」
「ああ、十分だ」
乾は、立ったままで、にこりと笑う。
「じゃあ、これから用意するから、お前はシャワーでも浴びてきたらどうだ」
「ありがとう。そうさせてもらう」
そう答えた声が、夕べよりは随分滑らかになっていたことに、ほっとした。
乾にしては、シャワーに時間をかけているようだ。
きっと、手塚が食事の支度に焦らなくてもいいように、気を使っているのだろう。
そういう気遣いは忘れない男だ。
乾には目玉焼きと言ったが、それじゃあまりに芸がないと思ったので、チーズ入りのオムレツを作ってみた。
あとは、淹れたてのコーヒーをマグカップに注ぐだけというタイミングで、乾がバスルームから出てきた。
偶然だとは思うが、乾ならある程度の計算はしていたのかもしれない。
「いい匂いだな」
嬉しそうな声に振り向くと、タオルを被って笑う乾の顔には、まだ無精ひげが残っていた。
剃らなかったのか──。
てっきり汗を流すのと一緒に、ひげも綺麗に剃って、さっぱりして出てくると思い込んでいたので、意外に思った。
だが、それはわざわざ口に出すほどの出来事でもない。
「すぐに食べられるぞ。さっさと髪を拭いてしまえ」
「わかった」
髪が短い乾は、タオルドライだけで十分だ。
手早くタオルに水分を吸収させ、すぐに朝食の並ぶテーブルに着いた。
乾は、本当にしっかりと熟睡できたようだ。
昨日とは別人のように、顔色が良い。
食欲もあるようで、テーブルに並んだものを次々に平らげていく。
夕べは、食事をしている間でさえ眠そうだった。
今、手塚の目の前にいるのは、手塚が良く知る、いつもの乾だ。
ただし、ひげさえなければ──。
なぜ、剃らないんだろう。
トーストを齧りながら、考える。
手塚が覚えている限りでは、過去に乾がひげを伸ばしたことはない。
テニス部時代から、乾はずっと色白だった。
中学の頃は、ひょろひょろと背ばかり伸びて、あまり男くささはなかった。
大人になってからも、どちらかといえば線が細く、いかにも理数系のインテリという感じだ。
ワイルドさとは縁のない乾に、ひげがあるだけで、全然印象が違ってくる。
今まで、想像したこともなかったが、こうやって実際に見ると悪くはない。
でも、それを乾に告げることには、なぜか抵抗があった。
さっきから、ずっと乾の顔を見ているくせに、目が合いそうになったら急いで視線をずらす。
その繰り返しだ。
手塚は自分で自分に呆れながら、すでに硬くなり始めたトーストの残りを、音を立てて齧った。
「ご馳走様。後片付け、俺がやるよ」
食事を済ませた乾は、空いた食器を持ってキッチンに向かおうとする。
「いや、いい。たいした手間じゃない」
「じゃあ、手伝う。それくらいは、やらせて」
乾は、手塚が貸した綿のシャツの袖を捲くり、強引に横に並ぶ。
断るほどのことではないし、元々、家事全般は乾の方が得意だ。
なので、素直に手伝ってもらうことにした。
手塚が食器を食器を洗い、乾は、それを拭いて食器棚に戻す係りだ。
水音がして、適度に自分の声が紛れるから、今ならさっき言えなかったことも口にできそうだ。
手塚は、なるべくさりげなく聞こえるように気を付けなら切り出した。
「剃らなかったんだな」
「ん?髭のことか?」
「ああ」
顔を見なくても、乾が笑ったのが、なんとなくわかる。
「剃るつもりだったけど、鏡を見てたら、ちょっと勿体無くなってきてね。月曜の朝まで、このままにしておくことにした」
「そう、なのか」
「なに、変な顔して。似合ってないと言いたいのかな」
「別に」
変な顔をした覚えもないし、似合っていないと言いたいわけでもない。
ただ、ほんの少し、戸惑っただけだ。
夕べ、乾の顔を見たときは、見慣れない無精ひげに驚いた。
それまで、そんな乾を見たことがなかったから。
ソファの上で眠ってしまった顔は疲れきっていて、まだらに生えた無精ひげが、余計に疲労の色を濃く見せた。
こんな顔はあまり見たくはない。
そう思いながら、今まで知らなかった男くささを、感じてしまってもいる。
「じゃあ、似合っている?」
「どうだろうな」
ちらりと見上げると、にやにや笑いが目に入る。
予想していた通りの表情だ。
嫌いでもあり、好きでもある、意地の悪い笑い方。
こんな顔ができるくらいなのだから、もうすっかりいつもの乾だということだろう。
「本当は、気になってたりしないか」
「少しはな。見慣れてないから違和感がある」
「それだけ?」
「何を期待している?」
ああ、これじゃ逆効果だ──。
気づいたときには、すでに乾の唇が間近にあった。
反射的に顔を捻ると、乾が小さく吹き出した。
「逃げるか?ここで」
「逃げたわけじゃない」
今まで何百回としてきた行為を、わざわざ逃げる意味はない。
「そうかな」
「そうだ」
何かを言えば言っただけ、乾のペースにはまっていく。
わかっていても、逆らえない。
「じゃあ、もう逃げないね」
恐らく、そう言われるだろうと思っていた。
いつもの乾なら、それが自然だ。
手にしていた洗いかけの皿は、するりと取り上げられた。
目を閉じてしまったことの言い訳を、どうしよう。
そんなことが頭に浮かんだ次の瞬間、柔らかいものが唇を塞ぐ。
時間にしたら、ほんの数秒。
ごく軽く、唇を合わせるだけのキスだった。
無精ひげがある状態でのキスが、どんなものなのか、確かめる暇もなかった。
目を開くと、意地悪というより、いたずらをしかける子供のような笑顔があった。
「ん。大丈夫そうだな」
「なにが」
「今度は本番だよってこと」
確かに、その言葉の通りだった。
強く唇を押し付けられ、長い長いキスをされた。
さっきのキスの何倍も長い時間だ。
なのに、何も考えられない。
息が苦しくて無理やり口を開くと、ぺろりと唇を舐められた。
「乾」
「黙って」
今度は強引に唇を塞がれ、少し無理な体勢で、強く抱きしめられた。
久しぶりに感じる、乾の体温や鼓動。
背中に手を回せば、もっとはっきりと伝わってくる。
会いたかったのは、乾だけじゃない。
自分も、待ち焦がれていたのだ。
角度を変えて、何度も唇を重ねる。
それだけじゃ不十分で、互いの舌を絡めあう。
何度も眼鏡がぶつかったけれど、外す手間も惜しかった。
そうやって抱き合っているうちに、立っているのが辛くなってきた。
身体の芯も、熱くなっている。
気づくと、いつの間にか、水道が止められていた。
やっとお互いを離したときには、同時に大きな息が漏れた。
「やりたそうな顔してる」
乾の唇の隙間から、舌が覗く。
「それはお前だろう」
「確かに、そんな気分だけどね」
「けど、なんだ」
「夜まで待つよ」
どうして、と口にはしなかったけれど、きっと顔には出ていたのだろう。
乾は、にやりと笑ってから、勝手に質問に答えた。
「自分への焦らしプレイってとこ」
笑い方は、いつも通りだが、無精ひげがある分、よけいに性質が悪く見える。
「なんだ、それは」
「ずっと我慢してたからね。すぐにやっちゃうのが勿体無い」
「普通は、逆じゃないのか?」
「やりたくてもできないのと、やろうと思えばできるのをあえてやらないのとは違う」
乾が我慢できても、こっちが我慢できなくなるかもしれない。
この男は、その可能性を考えていないのだろうか。
それとも、わかった上で、わざとこんなことを言っているのか。
乾なら、そのどちらもありえる。
乾の理屈は、手塚には理解できない部分が多すぎる。
だが、何年つきあってもわからないところがあるから、面白い。
「勝手にしろ」
そのかわり、こちらもも勝手にさせてもらう。
夜まで待てなくなったら、好きなときに服を剥ぎ取ってやる。
のこのこ、ひげを生やしたまま、俺のところにやってきたお前が悪いのだ──。
「じゃあ、後片付けを再開しますか」
「ああ」
とりあえず、乾の無精ひげは見なかったことにして、後片付けを再開させた。
ありふれた朝の、ありふれた情景。
でも、心の中は少しだけざわついている。
そういのも悪くはない。
「今日も泊まっていくんだろう?」
手渡した皿を受け取った男が、小さく頷く。
「そのつもり」
笑う乾の顔は、いつもとは違う色気があった。
似合っているという言葉は、ベッドに入ってから伝えてやろう。
2010.3.18
手塚が無精ひげ乾と、ちゅーするところを書きたかっただけ。